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〔コラム〕ソメイヨシノ誕生の物語

ソメイヨシノ誕生の物語

~吉野山の桜に深い想いを抱いた3人の物語~



 サクラと言えば、現代の多くの日本人は ソメイヨシノをイメージするように、ソメイヨシノは日本のサクラを代表する品種で、江戸後期に江戸郊外の染井村の植木職人の手で産み産み出されたとも伝えられていますが、その誕生につては諸説があり、現在も研究者の間で議論が続けられています。



 その中で、2015年に千葉大学の中村教授のグループが「上野恩賜公園にある小松宮像の周辺にあるコマツオトメを含む6本のエドヒガン系樹木の自家不和合生遺伝子型※1を解析した結果、(同じ並びで植えられている)ソメイヨシノの兄弟であることが明らかになった。」「この結果は、人為的に交配を行って得た実生を、鐘楼周りに植えた人物がいたことを示唆している。」※2との発表をしました。 


 また、この研究を受けて、2022年3月に「かずさDNA研究所」※3が「上野公園の小松宮像周辺(元上野寛永寺鐘楼部)にある、原木に関係が深いと考えられるソメイヨシノの4本は全国に植えられたソメイヨシノのルーツの可能性が高いと考えられ、そのうちから祖先のゲノムに最も近い1本を特定した。」※4と発表しました。



 現在もサクラの名所として有名な上野公園を舞台に、江戸時代の中期にソメイヨシノが創られたとする中村教授の説を、東京都薬用植物園の「薬草教室だより」(2016年4月4日発行)に中村教授が寄稿した「日本の桜 ~ソメイヨシノの起源を解明~」をベースに、当時の状況が確認できる出版物や浮世絵などの資料も加えて紹介し、ソメイヨシノ誕生の一つ説をめぐる物語をたどってみたいと思います。



 日本では四季の花を観賞する文化が受け継がれてきましたが、戦国の戦乱の世が終わり、太平の世が長く続いた江戸時代には一代園芸ブームが巻き起こりました。 


 その中心地が江戸で、全国から集まった大名が、屋敷に客人をもてなす庭園を造るために、国元から珍しい樹木を取り寄せて植えました。


 これらの庭の作庭や樹木の手入れを専門に行う植木屋が多数誕生し、多くが江戸の郊外の染井村に住み、屋敷地で園芸品種の改良や苗木の生産も行うようになりました。



 このような文化的な時代背景の中で、吉野山の桜に深い想いを抱いた3人の人物によって、ソメイヨシノ誕生の物語が展開していきます。



 1人は藤堂高虎で、吉野山に近い紀州粉河藩主となり、後に伊賀、甲賀忍者が住む伊賀・伊勢藩主なった人物です。


 2人目は、紀州藩主から八代将軍となった吉宗で、吉野の桜風景を良く知っていた人物です。


 そして、3人目が、高虎の下で働いた植木職人の伊藤伊兵衛政武です。



 江戸時代の初め上野山には藤堂藩の下屋敷がありましたが(上野地名の起こりとして、この地が藤堂家の領地のあった伊賀上野に似ていることから上野屋敷と呼んでいたことに由来すとの説があります。)、1622年2代将軍秀忠が江戸の鬼門(北西)に当たるこの地に、京都の比叡山延暦寺にならい「東叡山寛永寺」を建立した際に、藤堂家の藩邸は駒込(染井)に移りました。


 そして、高虎は、3代将軍家光のもとで吉野山の桜への想いをこめて、建立後の寛永寺境内に吉野からヤマザクラを移植します。その結果、寛永寺境内は当時の花見の名所となりました。



 吉宗は、吉野山の桜の風景に特別の想いをもっており、将軍就任後にヤマザクラを江戸城内で接ぎ木による増殖を行い、品川、隅田川、飛鳥山などに植栽し、庶民や農民に花見を奨励しました。


 それまでのサクラの巨樹(1本桜)を遠くから眺めるという花見から、多くの桜(群桜)の下で花見を楽しむようになり、吉宗のサクラの名所づくりにより、江戸庶民の「花見の概念」が変わりました。



 藤堂高虎は徳川幕府とのつながりが深く、家康、秀忠、家光の3代の将軍に仕え、幕府が大名家を監視する忍者からなる「隠密」を組織していました。


 また、植木職人は庭園の植木の手入れのため各大名の藩邸に出入りしていたことから幕府の隠密組織の一端を担っていたと言われており、藤堂藩の藩邸の植木職人は代々伊藤伊兵衛を名乗り、その頭取を務めていたと考えられます。



 また、家光は大の園芸好きで珍しい植物を好んだことから、全国の大名から多種多様な植物が献上されました。


 こうした植物は藤堂高虎を通して伊藤家に集積され、代々の伊藤家の当主が、これらの植物の自然交配や人為交配で、ツツジ、ツバキ、カエデなど多くの園芸品種を作出しました。



 江戸時代中期、紀州藩主から将軍に就任(1716)した吉宗(1684-1751)は、それまでの隠密組織を廃し、配下の根来忍者からなる「御庭番」を造り、紀州藩の隣の伊賀・伊勢の藤堂藩の改易の機会を狙っていたと思われます。



 この時の伊藤家の4代当主である伊兵衛政武(1676-1757)は、高虎が植えたヤマザクラのその後の姿を良く知っており、今また、吉宗がヤマザクラを植えて花見の名所づくりを行っているなかで、


「ヤマザクラは、成長は早く移植後15年もすると15mを超える成木になり、樹下で花見といかなくなる。樹高が高くとも吉野山の斜面地ではヤマザクラの花見を楽しむことが出来るが、江戸の平地ではサクラは樹高が低いことが大切である」と気づいていました。


 このため、政武は「平地の群植」に適した新しい桜の品種の育成を目指したと思われますが、桜の品種の選抜育種は広い場所と長い時間を必要とする一大事業です。


 吉宗と藤堂家・伊藤家がこの当時複雑な関係下にあり、政武は、将軍吉宗を警戒していたことから、伊藤家の屋敷地ではなく、藤堂家と関係の深く、旧徳川宗家との関わりから吉宗の権力の及ばない寛永寺の境内において秘密裏に群植に適した桜品種の育成を行っていたと考えられます。



以上が中村教授の「寛永寺で群植に適したソメイヨシノの育種が行われた背景」についての考察です。



 江戸中期のソメイヨシノの育種の舞台となった寛永寺の境内の鐘楼まわり(現小松宮像周辺)の様子を知る手がかりとなるのは、ほぼ同じ構図で描かれた次の二枚の絵です。


江戸名所圖會:東叡山寛永寺(元禄11年(1698)徳川綱吉改造後の寛永寺)


 中央の鐘楼の参道側の角地(赤破線内)には樹木はなく、正面参道の向こう側の植栽地(赤丸内)には高い木に混じるヤマザクラの幼木と思われる樹が描かれています。


東都絵図 上野東叡山全図 歌川広重 1831年


 歌川広重が35裁の時に強い意気込みをもって描いた浮世絵で、当時の境内の様子を忠実に表現していると思われます。


 注目するべきは、樹木、取り分け桜の樹形が描きわけられていることです。参道奥の森(赤丸の内)には、巨樹に育ったヤマザクラと思われる樹が描かれ、1698年の綱吉改修後の絵になかった鐘楼の参道側(赤破線内)に、5本のサクラがそれぞれの枝ぶりが分かるほど詳細に描かれています。


 広重の風景画には必ず人が描かれており、その人のしぐさが絵の主題を表現していると言われています。この絵にも沢山の参詣者が描かれていますが、鐘楼付近を拡大し、その視線を追って観ると(赤破線矢印、青破線矢印)、参詣者は一様に門をくぐると鐘楼周りの5本のサクラを眺めています。


 このことから、鐘楼周りのこの新しいサクラの群植は、当時の江戸庶民の間で評判となっており、寛永寺を訪れる目的の一つであったことが分かります。


東都絵図 上野東叡山全図 歌川広重 1831年  鐘楼付近の拡大図



 ここで、「かずさDNA研究所」と中村教授のチームの発表に戻って整理すると、



①「上野公園の小松宮像周辺にある、ソメイヨシノの4本(赤破線)は全国に植えられたソメイヨシノのルーツの可能性が高いと考えられる。」(かずさDNA研究所)、


②「コマツオトメ(管理番号135)とソメイヨシノ(管理番号136)及びエドヒガン系のサクラ(管理番号141~145)(紫破線・点線)は、『エドヒガンと、エドヒガンとオオシマザクラの雑種を相互交雑※5させて産み出された兄弟木』である」(中村教授チーム)※あずさ研究所の調査で「兄弟木の遺伝子を受け継いだクロー」であることが判明した。


③「この兄弟木から平地の花見に一番適するサクラが選抜され、そのクローンを『群植に適したサクラ』であることを示すために、旧寛永寺の正門に向かってアーチ状に植えたことを示している」(中村教授チーム)

となります。


 吉宗の将軍在位中(1716-1751)ここで群植に適したサクラの選抜育種が行われていたとすると、行っていた人物は4代目伊藤伊兵衛政武(1667-1757)ということになります。


 彼は、「平地の江戸においても吉野山の桜と同じように花見ができる桜」を作出することに心血を注いでいたと思われ、その深い想いを込めて、選抜したサクラに『吉野桜』と命名したのではないかと考えられます。

 サクラの育種は長い時間がかかることから、政武の想いは代々の伊藤伊兵衛に受け継がれたと思われます。



 広重がこの絵描いた1831年は桜の選抜育種が始められた頃からおおむね100年の年月がたっています。


 当時の江戸庶民の間で評判になっていたこの一群のサクラを、広重は、鐘楼の右側にひと際大きな『吉野桜』の原木とこの原木を親木とするクローンの3本の「吉野桜」を配し、鐘楼の左側に原木の兄弟木のコマツオトメを、それぞれの樹の枝ぶりなどの特徴をとらえ、構図を整えて描いたのではないかと考えられます。


 将軍家の代替わりと共に「吉野桜」の苗木の生産は伊藤家当主が代々受け継いで明治時代に至ったと思われます。


 東都絵図から25年後、広重は60歳(1856年)の時に人生の集大成として、118枚からなる大作「名所江戸百景」を制作していますが、その内23枚が桜の風景を描いています。

 ヤマザクラやエドヒガンと思われる樹形のサクラが描き分けられていますが、その中の数枚に「吉野桜」の若木と思われる桜が描かれていることから、この時代の江戸においては、「吉野桜」が普及し始めていたのではないかと思われます。


名所江戸百景歌川広重1856年

左)上野清和堂 不忍ノ池            右) 深川八まん 山ひらき 

 

 不忍の池周辺は大木に育ったヤマザクラと思われる絵が描かれていますが、深川八まんの絵には「東都名所絵図」の寛永寺鐘楼周りに描かれていたサクラと同じ樹形のサクラが描き込まれています。



 明治時代、上野山のサクラの調査が行われ、ヤマザクラと異なる形質を持つサクラがあることが確認され、それが染井村の植木職人が植えた「吉野桜」であることが判明しました。


 奈良県の吉野に生育しているのは「ヤマザクラ」であり、混同を避けるために「染井村」の名をとり「染井吉野」と改名されました。

 『平地の群植に適した桜』として生み出されたソメイヨシノは、成長が早く適度な高さで水平に枝を広げて大木になり、花が一斉に咲くという性質が好まれ、全国の城跡などの公園や河川の堤防に植栽されました。


 ソメイヨシノはすべて一本の原木のクローンで、同じ遺伝子を持つことから、同じ気候の地域では一斉に開花するため、気象庁の「開花宣言」の標準木となっています。



 江戸時代初めから上野の寛永寺を中心に行われたソメイヨシノの起源にかかわるロマンに満ちた物語をたどってきましたが、今回紹介した中村教授の説に対して、「現在の小松宮像周りのサクラの推定樹齢は、生育環境を考慮しても交配選抜が行われたとされる江戸中期の樹木とは考えにくい」とする指摘も寄せられており、その真偽については今後の更なる研究を待つ必要があります。



注釈

※1) 自家不和合生遺伝子:自身が持つ2つの遺伝子型と同じ遺伝子型を含む花粉の受精を拒む現象です。そのため、自家不和合性遺伝子の2つの遺伝子型が同じ個体に偶然に生じる可能性は著しく低い。2つの遺伝子型を持つ複数個体が同じ場所に存在する場合は、同じ両親の間の交雑によって生じた兄弟であると考えられます。


※2) ソメイヨシノ の起源を解明 -ソメイヨシノが人為的に育種され、原木候補を示唆する証拠を発見した- 2015年 日本育種学会発表


※3) かずさDNA研究所: DNA研究を専門に行う世界初の研究所として、1994年(平成6年)開所し、ゲノム研究を中心とした生命科学・技術に関する研究を通じて、生命科学・技術による医療・健康づくり、環境及び食糧問題の解決、新技術の産業への応用等の推進。それによる新産業の創出及び産業構造の高度化並びに科学技術の振興を促すし、もって人類の福祉に貢献することを目的に活動している公益法人。


※4) ゲノム解析で解き明かすソメイヨシノのルーツ ~全国のソメイヨシノの源流が上野恩賜公園に~ 令和4年3月8日 かずさDNA研究所


※5) 相互交雑:2つの親の間で♂よ♀を逆にした2通りの交配を行うことで、植物の品種改良において一般的に行われる手法です。


参考文献 

染井正孝 『桜がきた道』2000 信山社


石井誠治 『木を知る・木に学ぶ』2015 山と渓谷社


中村郁郎 ‘ソメイヨシノ’の起源を解明

―ソメイヨシノが人為的に育種され、原木候補を示唆する証拠を発見した―


2015 日本育種学会発表

      日本の桜 ~ソメイヨシノの起源を解明~ 薬草教室だより 平成28年4月4日発行 第1号



                                   大塚の森の生きものたちの案内人


PDFファイル:ソメイヨシノ誕生の物語 ~吉野山の桜に深い想いを抱いた3人の物語~



サクラがたどって来た2筋の道

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